あの頃の僕は、
光のない水面の下で、
静かに沈み続けていた。
呼吸はできていたけど、
生きていたとは言えなかったのかもしれない。
誰かの正解に従ううちに、
僕という存在は、
輪郭を失っていった。
そんなある夜だった。
ワインの香りがふわりと漂う空間で、
自由という名の空気を纏った女性と出会った。
彼女の所作には、
品と色気が溶け合っていた。
グラスの縁に触れる唇の動きさえ、
どこか、見てはいけないもののようで。
その熱が、
肌に触れたわけでもないのに、
僕の奥に火を灯した。
ただ隣にいただけなのに、
身体の深いところが、
ゆっくりと緩んでいくのを感じていた。
——自由じゃないのに、自由。
矛盾のようで、確かな感覚。
それはまるで、
絶滅の淵から逃れるために、
静かに深海へと身を潜めたノーチラスのように。
僕は知らぬ間に、
心の中の荒波から身を守り、
自分という殻を、
何層にも重ねながら生き延びてきたのかもしれない。
けれど彼女の自由に触れた夜、
その殻に、
艶やかにひび割れが走った。
理性と本能のあいだで、
小さく痙攣するように。
それから僕は、
ひとつずつ、纏っていたものを脱いで、
本当の自分で、
深く、ゆっくりと潜っていくように、
歩きはじめた。
何度も沈んだ。
でも、もう怖くはない。
あの夜、
僕の心と身体に差し込んだ、わずかな熱。
それが今も、
僕の奥深くを、
ゆっくりと、あたため続けている。
