焼き鳥はタレ派ですか?塩派ですか?
そんな問いかけは不毛だ!
「場合による」「気分による」としか言いようがない。
白米があるならば、タレが良いかもしれない。
飲み物によっては塩が良い時もある。
そういうものではないだろうか。
サディストか、マゾヒストか。
これも「その時の気分による」「相手次第」である。
僕はほとんどの人が両方の性質を持ったスイッチャーだと思っている。
SにせよMにせよ、本当にどちらかに偏った人は実際にはかなり少ない気がする。
自己申告のSだのMだのというのは、Sだと思われたいMだと思われたいという意思表示の場合が多い。
僕はかつて高所恐怖症を自称していたが、自分で言うのを辞めたら高所恐怖症も無くなった。
人は演じる生き物だ。
与えられた役割を内面化してしまう。
つまりSであると言う事によって、その発言との整合性を取る為にSな自分を演じてしまうのである。
Sが主導権を握っている格上でMはそれに従う存在というイメージがあるから、だいたいの男はSであろうとする。
だが実際にSであるかどうかは重要ではなく、Sというラベリングを自己成就させているケースは多い。
本当にSならば良いのだが、自称Sの中には自分本位のワガママな振る舞いを「サディスト」という言葉で正当化するタイプの人もいる。
逆に全てを人任せにして受動的であることをMと称する人もいる。
それはちょっと違う気がする。
自己申告のラベリングでキャラを固めるのも良いけれど、それによって選択肢を狭めているとすれば勿体ない。
そしてこれらのラベリングは「平凡」への反抗であり、「個性」への盲目的な憧れを秘めている。
だが実はその「個性」への羨望こそ、他ならぬ「平凡」の証明だったりする。
かつて僕は「誰よりも無個性な人間になりたい」という歪んだ願望を抱き、だがその考え方こそ他ならぬ「個性」であるという事実に打ちのめされたことがある。
そんな僕が珍しく自らにラベリングしたのが「ひねくれ者」である。
ひねくれ者であることに憑りつかれていると感じる時もある。
正直、自分でも面倒臭いを思う時もある。
ひねくれ者であるが故にひねくれ者であることからもひねくれて、ひねくれ者でないふりをする。
でもそれをこうして文章化することによってそこからもひねくれなければならない。
そうして僕は結局ひねくれ者を自称する。
もはや自分でも思考の到達点が迷子で、訳がわからない。
ちなみに僕は味に対するこだわりがあまりないので、食感が独特な食べ物が好きかも。
焼き鳥だと砂肝とか鳥皮が好き。
むね肉もも肉の違いはあまり分かっていない。