ありがたいことに文章力を褒めてもらうことが多い。
僕は本を読まないし、国語の成績が特別良かったわけでもないので、自分でも不思議だ。
だが子供の頃から、「考えを文章化する」というプロセスを大切にしていたから、そのおかげかもしれない。
僕はいつだって頭の中で何かしらの文章を紡いでいる。
その感覚は当たり前で、僕以外の人もそうなのだと思っていたけれど、実はそうではないのかもしれない。
そうなるきっかけは、僕が小学生高学年の時だっただろうか。
「もったいない」という日本語が世界的に知られるようになった。
持続可能な消費や環境への配慮が盛んになり、エコ活動の象徴としてこの言葉が使われるようになった。
「もったいない」という概念は日本独自のものであり、直接的に同じ意味を持つ単語は外国語には存在しないらしい。
それを知った時、僕は衝撃を受け「言葉」について考えたものだ。
当時の僕は、「では海外の人はもったいないと感じた時にどうするのだろう?」と疑問を抱いた。
そして子供なりに考えた末に「もったいないと感じる事がないから、それを表現する単語が存在しないのだろう」という結論に至った。
この時、子供ながらに言葉=概念だと解釈した。
そして腑に落ちる感覚と共に、一抹の不安を覚えた。
当時の僕は同世代の人達の会話にうまく馴染めないでいた。
同じ時代、同じ地域に生まれながら、付き纏う疎外感はさながらカルチャーショックのようだった。
昨日の出来事を、面白かったつまらなかった、そんな短い単語だけで会話を楽しめる人を訝しんでいた。
あげくに良い場合も悪い場合も「ヤバイ」という一言で表現するようになり、僕は違う星に迷い込んだかのような居心地の悪さに苛まれることとなった。
僕にとって「思考」とは「頭の中で言葉を紡ぐこと」であり、そして「言葉」は「概念」である。
ならば語彙力が低く、文章力に乏しい人の頭の中はどうなっているのだろう。
僕の想像では、文章力と思考力はほぼイコールだと思っていた。
どんな物事に対しても「ヤバイ」としか言わない人は、「ヤバイ」とだけ感じて「ヤバイ」とだけ頭の中で考えて「ヤバイ」とだけ発言しているのか?
それはあまりに不可解で、まるで自分とは違う生き物のように思えて不気味だったのだ。
そんな現実にリアリティを感じられず、自分の事すらもどこか他人事のように俯瞰している10代だった。
まるでこの世はオンラインゲームで、言動を自分の意思で操作できるプレイヤーキャラクターと、プログラムに従って自動的に操作されるノンプレイヤーキャラクターがいるかのようだった。
そうして、僕は他人への興味を失ったのだ。
やがて大人になり社会人を経験して、気が付けば僕も他愛のない会話を嗜む様になってしまった。
相変わらず脳内では思考を繰り返し無限に文章を紡いでいたが、それを口に出す機会はなく、その時になってやっと理解した。
人は頭の中で考えていることの全てを言葉にするわけではない。
当たり前のことだが、気付くまでに随分と時間がかかってしまった。
思考の一部分しか文章化しないのは状況や相手を考慮してのことなのかもしれない。
あるいは思う事があっても、それを文章化するのが苦手なのかもしれない。
いずれにせよ僕は、他人の文章化されない思考の部分をもっと知りたいと思うようになった。
今まで人に興味が無かったからこそ、今は人への興味が非常に強い。
普通の人が10年20年かけて興味を持って理解してきたことを、今更ながら興味を持ち始めたわけだから当然だ。
他愛のない会話の中から「この人をより深く知るためにはこの話題を掘り下げてみよう」と考えながら話すのは楽しいと感じる。
昔は嫌いだった薄っぺらい天気の話も、今では普通にできるようになった。
人の営みというものはそういうものなのだと、少し理解できるようになってきた気がする。
他人に興味を持たない生き方も嫌いではなかった。
でも自分には無い思考や発想に触れるのはとても面白い。
それを知らないままでいるのは、もったいないと思うようになったのさ。