村上春樹の短編集『東京奇譚集』に収録されている「どこであれそれが見つかりそうな場所で」を読み終えた。
物語は、ある男性がマンションの階段から突然姿を消してしまうという、不思議な出来事から始まる。
24階には母親が住んでいる。
26階には妻が待っている。
その間の階段で、彼は忽然と姿を消す。
そして20日後、離れた街で発見されるのだけれど、その間の記憶はない。
結局、彼がどこで何をしていたのかは明らかにならない。
でも、僕が気になったのは、失踪の謎そのものではなかった。
なぜ、彼は24階と26階の「あいだ」で消えたのだろう。
24階にいれば、彼は息子である。
26階にいれば、彼は夫である。
仕事に行けば、会社員としての顔がある。
どこにいても、彼には誰かとの関係の中で与えられた役割がある。
では、そのどれでもない彼は、一体どこにいるのだろう。
もしかすると、彼はほんの少しだけ、何者でもない自分に戻りたかったのかもしれない。
誰かの息子でもなく、誰かの夫でもなく。
誰かの期待に応える必要もなく。
ただ、一人の人間として存在する場所。
彼が消えたのは、そんな「ここではないどこか」だったのではないか。
もちろん、これは僕の勝手な解釈だけれど。
僕たちは、生きていくうちに、いくつもの名前を与えられる。
妻、母親、娘、恋人。
あるいは、職場での肩書きや、誰かにとっての頼れる存在。
それぞれの役割を大切にしながら、日々を生きている。
そして、きっとその中には幸せもある。
でも、幸せであることと、満たされていることは、必ずしも同じではないと思う。
今の生活に不満があるわけではない。
大切な人を愛していないわけでもない。
それでも時々、ふと考えてしまうことはないだろうか。
「もし、違う人生を選んでいたら」
「誰にも知られていない場所に行けたなら」
「私は、どんな私になっているんだろう」
それは、今の人生を否定することではない。
むしろ、今の人生を大切にしているからこそ、簡単には手放せないものがある。
だから人は時々、ほんの短い時間だけでも、別の世界に身を置きたくなるのかもしれない。
この仕事をしていると、そんなことを考える。
女性が男性セラピストに会いに来る理由は、人それぞれだと思う。
癒やされたい人もいれば、刺激を求める人もいる。
寂しい夜を過ごしている人もいれば、日常が十分に充実している人だっているだろう。
だから、誰もが何かから逃げているとは思わない。
ただ、普段とは違う自分になれる時間を求める気持ちは、少し分かる気がする。
いつも誰かを気遣っている人が、気遣われる側になる。
いつも冷静な人が、少しだけわがままになる。
しっかり者の女性が、無防備な表情を見せる。
普段は言えないことを話したり、普段は見せない顔で笑ったり。
それは、普段の自分が偽物だからではない。
人間には、ひとつの人生の中に、いくつもの自分が存在しているからだと思う。
僕は、そのどれか一つだけを「本当のあなた」だと決めつけたくない。
誰かの妻であるあなたも。
誰かの母親であるあなたも。
仕事に向き合うあなたも。
そして、僕の前でだけ見せるあなたも。
どれも同じ、一人の女性なのだと思う。
不思議なのは、この小説に登場する失踪した男性だけでなく、彼を探している主人公もまた、何かを探していることだ。
主人公は、自分が何を探しているのか、はっきりとは分かっていない。
それでも、どこかにそれが存在すると信じている。
僕は、この二人は意外と似ているのではないかと思った。
一人は、何かを探していることに気づかないまま姿を消した。
もう一人は、何を探しているのか分からないまま探し続けている。
そして、きっと僕たちも同じなのだろう。
僕自身、今の人生とは違う何かを探しているのかもしれない。
それが何なのか、まだうまく言葉にはできないけれど。
人と出会ったり、本を読んだり、知らない場所へ行ったり。
そうしているうちに、自分でも知らなかった自分に出会うことがある。
もしかすると、人は何かを見つけるためだけではなく、探し続けることそのもののために生きているのかもしれない。
僕にとって、女性と過ごす時間も、そんな探索のひとつだと思っている。
もちろん、触れ合うことの心地よさや、身体で感じる幸福も大切にしたい。
でも、それだけではない何かがある。
何気ない会話の中で、その人の意外な価値観を知る。
ふとした表情に、言葉にならない感情を感じる。
互いの知らなかった世界が、少しだけ開かれる。
僕が一方的に何かを与えるというより、二人で過ごす時間の中で、お互いに何かを発見していく。
そんな関係に惹かれる。
僕は、誰かを日常から奪いたいわけではない。
今ある人生を捨ててほしいわけでもない。
ただ、その人生の中に、普段とは違う自分でいられる時間があってもいいと思う。
24階にも26階にも属さない、二人だけの25階のような時間。
そこでは、無理に立派な人間でいる必要もないし、誰かが期待する女性を演じる必要もない。
甘えてもいいし、強がってもいい。
話したければ話せばいいし、言葉のいらない時間を過ごしてもいい。
そして、その時間が終わったら、またそれぞれの日常へ帰っていく。
何も変わっていないようで、ほんの少しだけ、昨日とは違う自分になって。
そんな時間を一緒に過ごせたら素敵だと思う。
小説の中で、失踪した男性は結局、元の世界に戻ってくる。
けれど、彼が何を見て、何を感じ、何を見つけたのかは分からない。
もしかすると、何も見つけなかったのかもしれない。
それでも僕は、彼がいた20日間には、何か意味があったのではないかと思いたい。
人生には、説明できない時間があってもいい。
誰にも理解されない感情があってもいい。
すべての経験に、明確な理由や答えを求めなくてもいい。
そして何より、ここではないどこかへ行きたいという気持ちを、必ずしも否定しなくていい。
それは現実からの逃避であると同時に、自分自身を探す旅でもあるのだから。
村上春樹の「どこであれそれが見つかりそうな場所で」。
タイトルをもう一度眺めていると、不思議と優しい言葉に思えてくる。
探しているものが何なのか、今は分からなくてもいい。
どこにあるのかも、分からなくていい。
ただ、それが見つかりそうな場所へ、時々足を運んでみる。
そんな生き方も悪くない。
もしこの小説を読んだことがあるなら、ぜひあなたの解釈も聞いてみたい。
読んだことがない人にも、いつか手に取ってもらえたら嬉しい。
そして、もし僕たちが出会うことがあったなら。
あなたにとっての「25階」は、どんな場所なのか。
そんな話もしてみたい。
誰かのためのあなたではなく、あなた自身が選んだあなたとして。
























