世界の皆さん、こんばんは🌏
誰かに会えた瞬間。
その人に会えた喜びを噛み締めます。
今、目の前にこの人が居てくれて
肌が触れ合えていることが
かけがえのないものと思える。
今日会えたのだから、
明日も会えるだろう。
来年も会えるだろう。
10年後も会えるだろう。
当たり前ですが、
その保証はどこにもないわけであります。
自分が会える状態であっても
相手が会えるかどうかはわからないです。
究極のところで言うと、
相手の「死」は
僕たちでコントロールできるわけ
ありませんから。
人間数十年生きていれば、
誰しもその経験は一度や二度
あるでしょう。
小学生の頃、
飼育していたハムスターが
死んでしまい、庭に埋めました。
生き物が「死ぬ」ということは
認識していたけれど、
自分が「愛」を注いでいた存在が
「死ぬ」ということに
どこか喪失感を覚えました。
同じく小学生の頃、
祖父が亡くなりました。
親戚一同が集まった場で
あまり悲しみはなくて、
むしろ久々に再開した従兄弟達と
はしゃいで走り回り、
親戚達が集まっているその状況に
どこか高揚感がありました。
言わずもがな、
「不謹慎」の意味すら知らない
歳の頃です。
お焼香の時に祖父の遺影と目が合ったとき、
祖父は僕に微笑んでくれているような
気がしました。
中学生の頃、
クラスメイトが病気で亡くなりました。
病室でだんだん痩せ細っていく彼の姿は
今でも目に焼きついていて、
僕がお見舞いに来たことに対して
かすれた声でお礼を言ってくれました。
葬儀場のエレベーターの中で
友人達と共に涙が止まらなかったことを
今でも覚えています。
歳をとるにつれ、
人との別れは増えていき、
親しい友人、母、祖母を亡くしました。
僕たちは「会える」ことが
永続的ではないことを
とっくに理解しています。
会えなくなる確率。
それは、
個と個の掛け合わせによって
定まると思う。
そしてそれは自分で
コントロールができない。
なぜならば、「相手」という存在は
絶対的な「変数」であるから。
自分と変数を
掛け合わせなければいけない限り、
ほぼ必ず後悔はやってくる。
今日会ったあの人に
伝えたいことは全て伝えられていますか?
世界