太平洋戦争末期、僕の祖母(当時28歳)は、まだ幼子だった僕の父と叔父を連れて、東京から祖父の生家がある広島県東部の小さな町へと疎開した。その頃祖父は二度目の出征のため大陸に渡っており、長らく家を留守にしていた。幼子二人を抱えての長旅は苦難の連続であったそうだ。鈍行列車を何度も乗り継ぎ、一路西へと向かうが、旅も終盤に入った頃、米子で大きな空襲に遭い、乗っていた列車は運行打ち切りになった。
一行は知らない街に放り出された。
泊まる場所を求めて民家をいくつか訪ねるも、非常時に行きずりの旅人を泊める余裕などあるはずもなく、時には罵声を浴びながら追い返されたという。
這う這うの体で祖父の生家へ到着したものの、当初は、あまり歓迎はされなかったようだ。時期が時期だけに、いくら長男の嫁とはいえ、子連れで帰ってこられては厄介に思われるのも無理もない。
そして程なくして8月6日を迎える。
祖父の故郷は広島市からは遠く遠く離れた山奥にあり、割と普段通りの生活が営まれていたらしい。同じ広島県内ではあるが、新型爆弾が投下されたことを知ったのは翌日の夜のことだったそうだ。
終戦後、洋裁が得意だった祖母は、近所の人たちを集めてちょっとした教室を開き、代わりに食料を分けて貰っていた。田舎の方では、当時はまだ洋裁が珍しかったらしく、祖母の教室は評判を呼び、地元の人とも仲良くなれたようだった。
洋裁に用いる生地は、各自が用意することになっていたらしいが、とても服生地とは呼べないようなボロを持ってくる人が多く、東京の暮らししか知らない祖母は、軽いカルチャーギャップを覚えたようだった。
祖母は、想像もつかないほどの辛い経験をしてきたはずなのだが、いつも笑い話のようにユーモアを交えながら、戦争体験を語ってくれた。何事にもクヨクヨする事なく、いつも大らかな人柄であった。祖母は小学生の頃に関東大震災を経験しており、その事も人生観に影響を与えたのだろうか。
祖母の体験してきたことと比べたら、自分の悩み事なんて、いかに小さいことか。
歴史は地続きとはよく言ったもので、先人の方々の苦労があってこそ、今、平和を享受できていると痛感する。
真夏は特にそう思う。
あ、ちなみに都内なら今すぐOKですので御予約お待ちしてます♪